現実は過去の自分の意識が集約された残像ということを、モネ展で味わう

見えてくる世界

こないだモネ展に行った。期間中、ここしか空いてない、という点でしか選べなかった日時。
その日は休みで予定もなかったから、何も考えずにプチっとその時間をタップして予約購入した。

それで迎えた当日。
実はあんまり気が乗ってなかった。
なんでかな。出掛けるまでやっていたことを、まだ続けてやっていたかった、というのがまずあって。

あとは、
なんとなく。
あまり期待できないんじゃないか?となぜかそんなつまらないような思いが湧いてきて。

なんでピンポイントで予約できたのに、あのときあまり嬉しくなかったんだろうか?

そんな予約時の気持ちなんかを思い起こしてまでして、なにやら本当に私は行きたくなかったみたいだった。

それが、見事に的中しまして。
ほとんど没入できずに回ってしまった。

とても人が多かった。そして、昨今の美術展はこうなのだろうか?モネ展だからそうなのか?
カメラ撮影がほとんどの絵画で許されている。
だから、モネの絵に向けて、あちらこちらからかざされるのは、素晴らしいと息を飲むその溜息ではなくて、スマホを持った片方の腕。

絵の前でスマホがかざされるから、そのかざす腕で絵が隠されていく。
絵の中央に立ち、至近距離で絵画にシャッターを切る。
そうしたい気持ちはすごく分かるから、その人の撮影を待つ。
待ってからじっくり見ようと思う。
そうすると、次の人がスマホ片手に控えている。

まさか、モネの絵の前で、こんな状況を目の当たりにするとは思わなかった。

しだいに気持ちが萎えてしまった。

というか、事実はおそらく、私が最初から気乗りがしなかったところを出掛けてきたから、
こうした意識がこんな現実を作ったのだと理解している。

だって周りの人たちは、撮影して回るその雰囲気はとてもポップで、楽しんでいた。
絵の一部をものすごくフォーカスして撮影していて、そのカメラの画素の細かさのほうを美しいと感動して見とれるほど。モネの絵の具の発色より、スマホカメラの画像の方が鮮やかで美しく見えるという、はるかパリから運ばれてきた愛する画家の実物の絵を前にして、こんなアイロニックな現実は初めてだ。

でももう一つ思ったことがあった。

パリで学生の頃にこの絵を見た。一緒に行った友だちが、私が没入しているのをそっとしておいてくれて、しばらく待っていてくれた。そのときの気持ちを思い出した。
モネの絵を今、私は50代でこうして一人、東京で見ている。
この空間で絵を感じるよりも、あの頃に感じた自分の感覚を探しにいくような感覚。

モネの実物の絵を介して、あの頃の自分の五感にアクセスしようとしていた。

私はどこまで感情人間なんだろうか。

モネが好きな人は日本だけじゃなくて、世界中にたくさんいる。
その理由が、今回わかった気がした。

みんな、お花ってかわいいな、癒されるなって、公園に咲き誇る花を見に行って幸せに浸る。

モネは、すごくそれに近い。

人の心に根源的に備わっている、自然を愛する心。自然に触れていたい願望。自然と一体になりたい体感。
そういう対象なんだよね。

あれは人が描いた人工の絵なんだけど、自然を描いたものだけじゃなくて、もちろん晩年過ごしたジヴェルニーの庭の睡蓮もあるけれど、ロンドンのウォータールー橋や死にゆく奥さんの肖像なんかもある。

私は子どもの頃からモネの画集を見ていて、英語でよくわからないまま読んでいて、モネの生涯と描かれた絵がなんとなくリンクしている。モネの絵を見ると、ああ、これはモネがここにいて、こうしていたあの頃の絵だ、と記憶している。
モネの絵が自伝として入っている。
だから人生の物語風に見ているのだけれど、そういう風に、例えば同じ印象派のゴッホなんかも、好きな人には見えると思う。

だけどなんだろうね。心の原風景に触れる気がするのは、モネだけだ。
なにか、誰もが共通して持ち合わせている、そうした心の原形を見せてくれているんだろうね。

私もあんまり空間にダイブできなかったものの、撮るものは撮ってきた。


スカートの下半分に、太陽の光が差している。日傘で覆われつくせなかったこの部分がぐっとくる。

私は実際に日傘を差す西洋人を見たことがないが、風も日差しも強いある日の花の丘で、1800年代のある一つの瞬間、彼女の佇まいの美しさを雲をつかむように描き取り、次の瞬間に風に舞ってしまいそうな生の質感が薄い感覚が、私には母親を思わせる。

あーでもやっぱりいい。

もっと味わってくれば良かった。

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