自分が欲しい愛じゃないかもしれないけれど

本当のコミュニケーション

最近、ものすごくありがたい。
自分の周りは、愛にまみれているじゃないかと思う。
そんな気持ちになって、ありがたくていちいち涙が出る。

人の表す愛の形はいろいろなんだということを、心から理解したことがある。

ある人は、衣食住を不自由なく整えることだと思い、
ある人は、高い教育をきちんと受けさせることだと思っている。

別の人は、からだに直接触れ合うことだと感じていて、
そしてまた別の人は、プレゼントを贈ることが最大の喜びだと思っている。

そしてわたしは、こうして愛を伝えあうことを大切に思っている。

みんなそれぞれ自分好みに配合した愛の形を複数持ち合わせて生きていて、
その優先順位や強度やレベルの高低に違いがある。

それは生まれたときに決めてきているようだ。

だからたぶん、愛の形が完全一致することって、究極的にはないんじゃないかと思う。

それで、ここからが人間らしいことなんだと思うけれど、
この愛の形が愛する人と違うから愛し合うし、愛し合ってから愛の違いに戸惑い、悩む。

それでしだいにこう帰結していく。
「この人はじぶんにとって違うんじゃないか」と。

先週夫と一緒に夕飯を作っていた。
その数日後、わたしの誕生日に企画していたことがあったんだけど、
夫がそれを、店に確認していなかったことがあった。

旅行先の旅館に、なにか誕生日に利用した際のサービスを尋ねたところ、
宿泊前日にも返事が来ていなかった。
夕飯の支度をしながら、返事はどうだった?と夫に尋ねた。
まだ来ていない、と答えたので、もう明日支度して出掛けるというタイミングだったから、
わたしは、「私だったら待たずに訊いちゃう、電話して訊いてみて?」と言った。

すると夫が、むすっとした顔をした(と見えた)。
だからわたしは、「私が電話するよ」と言った。ぜんぜん気にしないで言った。

夫はむすっとしながら、電話してくるよ、とキッチンを出て行った。

暫くして戻ってくると、乾杯のグラスワインのサービスがあるって、と言った。
わたしは、そうなんだ、訊いてくれてありがとう、と応えた。


夫のむっすりが気になっていた。
いつもなら、どうせ私が急かすようなことを言ったと思われて、気分を害してるんだろうな、でも私の誕生日なんだから、もう少し能動的に動いてほしいな、と内心思っているところだった。

今回は、私にとってはおめでたい日のことなのだから、自分の心を傷めたくないし、尋ねてみた。
「なんか怒った感じに見えたけど、私が電話した?と言ったから、またそういうことを言う!って思った?」

すると、「いや、じぶんが気が利かなくて不甲斐ないと思って」と答えたのだった。

怒っているように見えた夫の表情は、不甲斐なさを自責している顔だったと分かり、驚いた。

私が怒っていると思い込んでいたから、そう見えた。
そして、まさかその顔の奥に、そんな想いがあったとは。

夫はそういうイベントごとが苦手な人。
私はそういうイベントごとを考えて贈ることに喜びを感じる。

だから、同じように相手を祝うにしても、表し方が違う。

だからといって、愛がないのではない。
ほんとうに、ただ、表現が違うだけ。

こうして夕飯の支度に一緒にまな板に向かってくれること、これも彼が大事にしている愛の形だ。

こういうことを分かり始めると、人はじぶんなりの愛を表現して生きているんだな、と思う。

お互い一致していたら楽で気が合うし、高揚感があるだろう。
一方で、一致していなかったら、相手に自分と違う愛を見出す努力、理解しようとする心の動き、言葉で聞いたり伝えたりすること、そうした学びがたくさん用意される。

どんな愛の形を選ぶかも、自分がそう決めて生まれてきている。

送信中です

×

※コメントは最大500文字、2回まで送信できます

送信中です送信しました!