ネガティブの終焉

言葉

この4月から、過去、自身の身に起こったさまざまなネガティブな出来事について、これまで人に言ってこなかったことを、話すべく人に話した。

人を相手に自己を語る。自分はネガもポジも両方あるし、その間だって果てしない濃淡の灰色が連なる。

ネガティブは、私自身の人間性を構築した、かけがえのない要素だ。自分を表現するなら、ネガティブな話は欠かすことができない。

なぜならネガティブから相対的に自己を知り、客観的に自己について気付いたことだらけだからだ。

そしてネガティブな話をするとき、その経験の登場人物としてネガの原因を作ったとする人にフォーカスすると、その人自身が、私に気付きをもたらせるためにキャスティングに応じ、目の前に現れてくれたのではないかと感じられてくる。激烈な形での気付きとはいえ、その経験値の崇高さに、難しい役を買って出てくれたその人に、心の底から感謝せずにはいられない。

人は誰だって、自分の顔を自分では見ることがでないように、自己に独りで気付くことはできない。

相手がいて初めて、自分を相手に映し、自己を知る。

その人が原因を作ったんじゃない。私が自己を知るために、その人を原因にしたのだ。

私はネガティブな経験を数多く経た。
強い悲しみや痛みを何度も経験しなければ、私が自分に気が付かなかったからだ。

もう、いい。

もう、いいよ。


じゅうぶん経験した。

周りのみんなも、難しい役から解除してあげたい。

だから、こうしてネガティブを語り、ネガティブなストーリーの上演を、ここで終わりにする。

実は、ネガティブを語っているうちに、言ってこなかったもう一つの面にも気づき始めた。

辛い出来事の中にも、格別なポジティブが散りばめられていることだ。

そのポジティブは、出演者全員が切磋琢磨していたら、知らぬ間に築き上げていた、光の柱。

ネガティブもポジティブも、同じ相にある。いわば、どちらも捉える向きが変われば転換する。

本当は、経験の真意はこっちのこと。

明日からは、そんな無数の小さな星の光を、紡いでいこうと思う。

そうしたポジティブな想いこそ、私が生きる上で支えになっていることだから。

「ありがとう」の衛星を、打ち上げるよ。