夕飯を終え、先週土曜日の朝日新聞beのクロスワードパズルを解いていると、帰宅した夫がリビングのドアを開けた左腕の延長線上に、一通の手紙を私に手渡した。
この時期だから、喪中か年賀状仕舞いのご挨拶か、或いはクリスマスカードか・・。どこかで見た覚えのある小さい丸文字で書かれた自宅住所と自分の名前を見つめながら封を開けた。なにか、いい予感とよくない予感が拮抗して頭にのぼってきたが、二つに折りたたまれていた小さな便箋二枚を、和菓子の包みを開けるようにそっと開いた先の文面には、高校の同級生からの同窓会へお誘いが書かれていた。
私は新卒で入社した年に大きな病気を患い、8年くらい療養中心の生活をしたこともあって、20代のほぼ時間すべてを体のことで悩んで過ごした。だから卒業後、学生時代の友人に会う気力も体力もなく(その頃は時代背景として、今のようにじぶんの病気や症状などは個人的な体験として留め、話すことも聞くことも表立ってすることはなかったから)、お互いの結婚式に出たり呼んだりしたあとは、年賀状だけの連絡になっていた。
10代後半のあの頃。実家では祖母と父と母がごちゃごちゃやっていて、家の中が安全地帯ではなかったけれど自室はワンダーランドであった。壁には、映画館からもらい受けた特大ポスターを貼り付けて、男女が肩を抱き合うそのモノクロ写真になにかを投影していたと、今であるからこそ、そうした少女の自分を理解することができる。
その4畳半の空間が唯一好きに空気が吸え、好きな音楽をラジカセで鳴らし、内なる感情を掻きだしてはノートに書きだしていた。
私はすでに、10代で大人のような心持ちだった。ヒリヒリして、学校も遅刻したりしがちで、そんな自分を、私自身が不安であったし、不安定に傾きはじめた自分の背筋を垂直に保つことができず、そんな自分を客体視する自分がいつも不安そうに見ていたのを思い出す。
あの頃、心の傷が表面化し始めた最初のころだったな・・
過去に意味があって、その過去があるために今のわたしがこうして心の内側をさぐる提供者となるべくして今を生きている。
いや、今があるから、過去がそう設定されたのかもしれない。
手紙の文面から、友人に流れた経験や歳月を見つけたくなった。いい時間を過ごしてきたのかな。バカみたいだけど、彼女も大人になったな、でも字はあの頃と同じだな、とか、自分が知っている過去との比較や一致の発見がいちいち嬉しくなる。文末の言葉の丁寧さに、少しクールで低めの温度を感じもしたけれど、唐突で久しぶりな投函に、どう書くといいか考え上での大人な判断ーーそんな結びを選択したようにも思った。
手紙の最後に、ショートメッセージをもらえたらLINEの友だち追加を送るとあった。
うれしくて指示通りにすぐ送ると、即レスでQRコードが届いた。
順当にLINEでつながった。
そうして何十年の月日は光の速度で目の前に顕れ、もうとたんに当時のやり取りが小さい吹き出しに散らかり始める。
わたしは少し慎重に読んだり打ったりした。
文面から、彼女の今を読み取ろうとする。
手紙とは打って変わって、弾むような語尾と顔文字。ちゃんとここまでのいきさつや状況を書いてくるのは、あの頃と同じ丁寧さ・・・。変わってないなぁ。。
わたしは今や、こんなふうに相手の感情や意識を感じるように観ているー。
久しぶりの友人との初めてのLINEのメッセージに、今のじぶんを映した。
同窓会はたぶん2026年3月の昼間。



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