CANVAで「幸せ」と打ちこむと、両手を広げて喜びを表す写真が並びます。
そんな表現をじぶんが思わずして、「わたし、こんなことするんだ!」とじぶんが驚いたという経験をしました。
そうしたくなったんですよね。
今までそんなハッピーをイメージする写真を、どこか演技ぽく感じていたのですが、
実際ほんとうにハッピーだと、手足をのびやかに広げたくなるものなのですね。
私は以前、熱くて激烈な感情体験を創り出していました。
決して意識してそれをやっているつもりはなかったのですが。
それは強烈で少し怖くもあり、自分をそんな境地にわざわざ置いて、生存して帰れるのか試されているように感じたり。翌日、心も体も回復に費やすような、まさに生還したかのごとく、無事を確認していた感じすらあったんですよね。
例えば、ロンドンに短期留学したときのある夜。
友人たちとパブで飲んだら遅い時間になってしまった。駅からホームステイ先まで歩いて帰る道すがら、フードをかぶった大柄の男性たちがたむろしている。怖い・・・タクシー拾えばよかった。もっと早く店を出ればよかった・・飛び出さんとする心臓を手のひらで抑えながら、祈るように通り過ぎて__。無事に着いたときの安堵感といったら。
激しい体験をして、「あ~幸せ」と感じることは一度もなかった。
そんなことを、今になって初めて認めました。
「幸せ」と感じたのはつい5日前。夫と出掛けた海浜公園。
私はつい、強度の高い体験を求めがちで、「こんなイメージ」というのが先に立ち、こうなりたい!という思いを実現したいところがあって、そこに辿り着くことが目的のような結末になりがちでした。
以前よりかなり自分というモノが分かってきたので、今回は、いつもせわしないからゆっくりしたい、ゆったり感じたいと思い、行き先を変えました。すごく行きたい場所ではなかったけど、だだっ広いところに行きたい、と言ったら、夫が春に行けなかった海浜公園を提案してくれました。
そして、本当にその通りゆったりと感じ切ったんです。
「幸せ」を体の細胞の一粒一粒で感じてきました。

言うならば「ぬるい沸点」。このときのように過ごしたら、毎日同じような温度で続けられるし、日々エネルギーが満ち満ちていくだろう。
激烈な体験は痛みを伴うから、毎日は続けられない。
身も心も壊れてしまう。
私は若い頃、熱量が高いと「生きている!」と感じ、そうしたものを追求しては、日常の営みを陽炎のように見送り続けていました。
まるで激辛ラーメンのレベル10とか、そういうものが流行っているのと似ています。
違うんですね。
温さや緩さ。そんなところに本当の幸せがある。
幸せとは、感じるものだから。
感じることは、速かったり忙しかったり、最高潮に達するような高揚感や興奮状態では決してできない。
ゆっくり食べる。コーヒーを香りとともに味わう。ゆったり花を愛でる。かわいいね💛と声を掛けて、一輪ずつ、かわいい角度はどこかな?とあちこち顔を傾けて写真を撮る。
あっちの道はどこに続くんだろうね?こっちに行ってみようよ。ああ、あの人が楽しんでいる、みんなで並んで焼き芋を食べながらうふふ🥰と笑っている。丘にあがると誰もが満たされた顔で空を仰いでいる。若いカップルに声を掛けられ、写真を撮り合いっこ。愛の笑顔の交換。空が低くて広い。海風に乗った波が、時間を追うごとに満ちていく波打ち際で、砂粒をさらって引いていく。
しゃぱーん。じゃらじゃらじゃらじゃら・・・しゃぱーん。じゃらじゃらじゃらじゃら・・・。

今でも隅々思い出せるくらいに覚えている、あの日の一部始終。リラックスした夫のしぐさ。真水のような自分の気持ち。
ああ、なんてことある幸せ。
この世界に、すべての人に、ありがとう・・・そんな気持ちになりました。
自分に課すように一生懸命やることが幸せじゃなかったし、自分らしく生きることは、頑張ることじゃなかった。
よく聞く言葉。頭では分かっていたけれど、実感したことがこの上なく嬉しかった。
でもわたしは熱いお風呂が好き💛


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