願いはちょいちょい叶っている

見えてくる世界

先日、ライブで歌うことが叶ったことを書きました。
そして、TV番組を見たあとにじぶんを振り返って気が付いた。
これまで、願ったことが実はいろいろ叶っている。

「願望実現」というと、自分の人生の中で、わりと大きなこと、

人によっては早期退職して、田舎で畑をやって野菜を育てて、ご近所さんと交流して、ゆったり暮らしていくとか、

SNSで発信しながら、定住せずに行きたい時行きたい場所に旅するように生きるとか、
生活の基盤が根本から変わるようなものを「願望」と捉えているだろう。

でも、よくよく振り返ってみると、

こないだ、夜ご飯食べ行こう?となって、何食べに行く?そうだなぁ~、あ、街中華じゃない中華食べたい!と俊速で決まり、地元で初めての店に食べに行った。

ああ、歌いたい!どうしても今!うずうずうずいて、クリニックから帰宅して食事してからもう一度出かけ、じぶんの世界に浸って思いのたけをこめてカラオケで歌ってきた😊。

これらはれっきとした『願望実現』。
日常で小さな願いをちょいちょい叶えているほうが、幸福感は増すもので、人は幸せを感じやすいものなんだ、と書いたけれど、そっか、私やってるじゃないの。

ただ、こうした小さな願いを「願望」と捉え、それを行動に移して現実化させたということを、
「願望実現」させたと認識していない。

こんな小さなできたことを、どれだけちゃんと分かって受け止めて、自分を認めてあげることが大事。これは成功体験の貯金であって、自己信頼につながっていく。

逆説的だけれど、人生を覆すような大きな願望を実現させることを『願望実現』と捉えているからこそ、願望を実現させることは難しいと思い込むことになるから。

こんな小さな成功体験を子どもの頃は日常的にやっていたのに、自分が妻や母親になったらできなくなった。母親の意識をコピーしていたよね。

だから今こうして再びできるようになった自分は、復活祭の真っ最中。

こうした願望に沿った行動を取っていると、共時性(シンクロニシティ)が起きてくることが多々ある。

年賀状でしか連絡取り合っていない友人を、あの子どうしてるかなぁ、と思っていたら、このカオスで狭小複雑に入り組んだ東京でバッタリ逢ったことが二回。どちらとも、2秒早くても遅くても会うことはなかったシチュエーションだった。

ほかにも、以前勤めていた会社で海外の仕事をしたい!と思っていたら、海外部門が新たに立ち上がることになって、その部署に一本釣りされた。

何もなかったところに私の願望が新設されたのだから、驚いた。

人の念というのは、こんなふうに現実を創る力がある。と言うしか他に説明のしようがない。
量子力学的には同時にいくつもの世界が併存していて、その人のそのときの意識が選ぶ世界を現実として見ているだけだと。これは本当にそうだと思うことがしばしばある。

昨年、会社のパントリーで朝コーヒーを淹れていた。すると突然、絹衣にふわりと包まれるような幸福感に満たされた。その日、会社は都の業審査を受けることになっていて、その査察が終わったあと、社内のみんなと喜び合っているイメージが降りてきた。

「あ、今日は素晴らしい結果になる。」そう確信し、淹れたてのコーヒーを味わった。
そして午後、審査に伴った。そのときは現場の緊張感で朝見たイメージはとっくに忘れていた。

すると、前日に当りを付けていたポイントに審査官から質問が来て、シミュレーション通りに回答し、ほんの数点のやり取りだけで流れるように事が運んだ。まるで、私たちを援護してくれるような、暖かい助言もいただいて。

「これだけやってもらっていれば文句なしですね」

こんなにスムースな審査は創業以来初めてで、社長含めた関係者全員集まり、喜びあった。
そう、あの『コーヒーを淹れていたときに降りてきた幸福感』そのものだった。

私は何を見ていたんでしょうか?
心理の先生に尋ねたら、先生は「未来を見ていたんでしょうね」と言った。

へぇ未来か・・・。時間なんてない。過去も未来もない、今しかない、っていうけれど、願望に対して疑いのない心模様だったとき、実現すると決まっているのかもしれない。

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