今日は私のコラムちっくに。
息子が3歳か4歳の頃、自転車が乗れるようになりたくて、公園の近くの車が通らない道路で毎週末練習した。
最初は補助輪を付けて。これは普通によゆー。後ろのタイヤに補助が付いているから、絶対に倒れることはない。安心してガラガラと、どこまでもいつまでも走っていられる。
でも全然速く走れない。一生懸命こがないといけない。
そこに、同じくらいの子が、補助輪なしでじぶんを追い抜き、走り去っていった。
そんなほかの子の後ろ姿を見送り、補助輪でガラガラとアスファルトをゆっくりこするじぶんの重力を感じながら、何回かの週末を経て、息子はやがて、補助輪を外す決心をした。
そこからが地獄だった。ともかく転ぶのだ。補助輪のサポートが外れ、自分の体を支えてくれるものはないから、ひざとひじがアスファルトでこすれる。こすりたくないから、怖くて走りだせない。
ひじひざ用のサポーターを買って付けた。転んでも大丈夫だけど、やっぱり転びたくない。なかなか右足左足とペダルを空中で連続してこぐことができない。
そんなもどかしい中、すいすいとほかの子たちが爽快に走っていく。
だんだん、空中で何回かこげるようになってきた。回数も増えてきた。
走れる距離が、すこーしずつ、すこーしずつ伸びていく。
「じゃあ今日は、卒業試験。」ある日、夫が言った(気がする)。
結構な直線距離の向こう側。夫が立っているところまで、息子が自転車をこぐ。
「じぶんのペースで走っていいよー!」と声を張り上げ、卒業走行前の息子を私が励ます。
息子は意を決してペダルに片足をかけ、こぎ出した!
ゆ~らゆ~ら、右ーに、左ーに蛇行する。蛇行するたびに自転車と一緒に彼の体が揺れる。
それでもこぐ。こぐ。こぐ。こぐ。こいでこいでこいで・・・どんどんこっちに向かってくる。
そう。彼はもう、自転車と一緒に走っていた。自転車で走っていた。
そして、夫の待つ場所へあと数メートル・・・というところで握りしめていたハンドルを突如放り投げた!
夫の元に飛び込むや、「わぁーーーー!!」と大声で泣いた。
自転車はタイヤを横たえ、からん、からんとしばらく回転していた。
あの恐怖や緊張、自己使命感から一気に解き放たれた息子の顔、それを抱きとめた夫の表情を忘れない。
自分の子どもの頃のことは覚えていないけれど、自転車に乗れるようになることって、こんなにも感情と体を使って、無心に自分と向き合い、劇的なのか・・・この光景を前にして、心が濡れた。
この日を境に、息子は自転車を相棒のように操れるようになった。
自分の意志で乗る!と決意し、自分で乗れるように練習しなければ、乗れるようになれない。
シンプルだけど、自転車に乗ることって、自分として人が生きる基盤なんじゃないかと、今の私にすごく当てはまるような気がしている。
大人になったらなったで、自分の中に蓄えたたくさんの情報や知識、経験を整理する。
そして大切なことを仕分けして、ちゃんと使えるように、乗りこなせるようになりたいのだ。
今日やる目標を小さく設定。
それを具現化するのが、冬至までの目標。
私も息子のように、転んで少しケガして痛くても、自分の意志で乗る!そして、
「わぁ~~~!」と、自分へありったけの賛辞を、空に向かって叫ぼうっと。
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