今日は、先日のブログ「コーチングで見つけた葛藤の正体」で書いた、長年停滞して内側がなかなか変わらなかった理由に気が付いたことで、少しフラッシュバックが起こり辛くなったりしたんだけれど、この頃わたしは、それにどっぷり浸かりきらないようになってきました。
以前は、一度ネガティブに傾くとマイナス感情の沼にとり込まれて、どうしようもない絶望感にまみれて心身症になっていたんですよね。
でもあれ以来、もう我慢しないと吹っ切れた感があり、仕事で、じぶんからどんどんアクションを起こすようなことをしていっています。
以前は仕事で、ここまで把握したら、とか、もう一度間違いないか確認してから、とか、結構念入りに正確さを追求してやっていたんですけど、これも「完璧じゃないといけない」思い込みだと分かりました。
だから、もうここで出そう!(この時点で何度も確認した後だったりしますが・・)とじぶんに許可し、潔く発信できるようになってきたのです。
メールの文面も、受け手に不快感がないように・・とか、いろんな人がcc入っているし・・など、もう全方向にアンテナを立てて文章に何度も手入れをして送信したりしていました。
今ではストレートに発信目的を書いています。
その上で、『確認をお願いするのだから丁寧に依頼しよう』など、自分の目的を達成するために意識の順番に変化が生まれ始めました。そして結果的に、自分のために受け手に対して丁寧に書いています。
そして、今まで周囲を気にしながら回してきた仕事ですが、
私の担当業務なのだから、私がこの案件の主導権を握るほうがやりやすい、という自分中心の発想に変わってきて、社内にどんどん疑義を振ってアクションを起こし始めました。
そうすると、その疑義事項が結構大きな改訂を生む可能性が判り始めて、複数の部署の職責の方たちを巻き込むことになり、その方々と意見交換することになりました。
これが、すごく面白かった。

何が面白かったかというと、わたしが端を発して生まれた議論の場になって、私の責任の範囲で、踊るように得たい話しの方向に舵を切れた感じがしたから。
よくあるパターンは、業務アサイメントがあって「これをお願いしたい」と状況説明を受ける立場。
上から仕事が降りてくるお決まりのやつです。
今の職場は上司や部下がいる組織ではなく、一人ひとりが持ち場でワンオペに近い状態。
わたしの所属先は課内で共有する仕事もありますが、私は人と同じ作業や仕事をするのが好きではありません。
そのときだけ、その場だけ、ということならぜんぜん問題ないけれど、同じ仕事を分担するのが日常となると、ちょっと耐えられない。
わたしには、こんなふうに仕事をしていきたいというイメージ像があるのですが、これはなぜか、中学生の頃の活動なのです。
わたしは当時、生徒による自主活動を興し、下級生が集まってきてくれて、フラットに楽しんでやっていました。
職場で私がアクションを起こしたら現れてきた現実を見て、とっかかりとしては、あ、これこれ、これがわたしが理想としてる協働・共生の場なんだ、と感じたんです。
湖に向かって、水面に弧を描くように石を投げいれる。一滴の水滴がトポン・・と上がり、そこを中心に静かに波紋が生じ、やがて湖ぜんたいに拡がっていくように。
それを発端に、あちこちで小さな波紋が広がって、重なり合い、湖ぜんたいが共振していく。

わたしは「こうなりたい」というじぶんの理想像が、中学生のあのときのじぶんなのでしょうか。
過去すでに、理想の自分になっていたと言えるのか。わかりません。
それを今の大人のじぶんとして再現したいと思っているのでしょうか。
おかしな話ですが、自分はこんな人間だよ、と分かっていたのに、そこに突き進めなくてたくさんの遠回りと後戻りをしてきたような気がしています。
すべてに偶然はないし、わたしが経験したかったから、心身に負担が大きく、人生が沈み込むような苦しみがたくさん起きました。
そうした中で人・出来事との出会いを通じて、さまざまことを教えられ支えてもらい、「あの頃の自分になりたい自分」になるために、責任感とか忍耐力とか受容力、認識、俯瞰した見方、それから「愛」の本質といったものの筋力や肉付けをしていく必要があったのかなと思っています。

自分に対して責任とリーダーシップを取る。自分をきちんと導いて到達したいところに行かせてあげる。そうすることで、私の経験してきたことが人の支えになれると思うから。
それが、この10月から始まる新しい9年間の、私にとっての目指す生き方。
雨上がりの夕方、そんなふうに感じながら、近所の公園の大樹の枝葉から包まれるようにエネルギーを受け取ってきました。


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