姿はなくても、そこにいるー誰かの意識が残る場所

日常の気づき

夫の、大きくて厚くて温かく、やさしい手。

そんな広い手が濡れてタオルでぬぐうと、わたしの足より大きいからすぐ浸る。

朝の早い時間、出勤前から、洗面所ではすっかり濡れタオルができあがっている。

お風呂を洗って洗濯して干して、自分の身支度をして・・・

我が家のキッチンには家族一人ひとりに自分用のタオルが掛かっている。コロナ禍から感染ケアで分け始めた。現在はそれぞれが料理をするからというのもあるけど、それが心地良くなってそうしている。

夫のタオルだけ、私たちの三倍くらいの速さで吸水されていく。

彼がうちにいるときにしていること、心の中、どれだけ動いているのか。そんなひととなりがタオルからだけで見えてくる。

なんだかこんな身近な幸せを、いつから感じられなくなったのか。

確かに抗し難い問題が家族間にさまざま起きた。起こり続けて、それに対処するのに歩く歩道をずっと小走りに走らされてきたようだった。

止まればいいし、そんな水平エスカレーターから降りてしまうこともできた。でもわたしは真っすぐそのレーンを進んで受け止めて見届けることを選んだ。

出勤する夫を玄関で見送り、脇の小窓から彼のうしろ姿を見届けた。一度振り返り、私のほうに向きあって手を振った。私もその手に振り返す。

そして、彼がさっきまでいた自宅の外庭が、家主が去っても乱れることなく静かで、我が家のエリアになにか霊性が宿っているような、そんな空気感を覚えた。

それがこの街に、空に広がっていくような感覚。

夫の出掛ける背中から、何やらレノアのCMみたいに、見えないキラキラがこぼれ落ちていった。

人の意識は光だ。実際にそこに居なくても、あちこちにその人のフォトンが飛んで、浮遊している。そんなところに人の本質が見える。

私は人や自然からそんなものをキャッチして、生きている。

「(その人自身のことを)その人に伝えてあげること、気が付かせてあげることが〇〇ちゃん(=私)の役目なのかもしれないね~。」

自由に生きるをまんま体現している従妹のYちゃんが私にそう言ったのは、今年の6月のこと。

私はそんなふうに相手を感じることで、自己を知ってきた。

だからやっぱり、善い悪いと一応区別を付けて、どっちのケースでも自分を知るために現実を起こしているのかと、腑に落ちる。

だからやっぱり、人は人から学びあうんだね。

確かに存在していた問題がどこか消えてしまったような感覚になるのは、自分の視点が変わったからか。

私の意識は、このブログを読んでくれている方々に、見つけてもらっていると思ってる。

ありがとう。

あなたにも、身近な誰かの”意識の痕跡”が残っている場所はありますか?

送信中です

×

※コメントは最大500文字、2回まで送信できます

送信中です送信しました!