自分が選択した世界

見えてくる世界

2025年7月5日。「私が見た未来」で予言された日。まだ先、まだ先、と思っていたら、明日になった。

週末に予定されていた心理の勉強会は休みになると連絡があった。

災害、事故、戦禍、紛争・・・起こらないことを祈る。

この地球という場所で同じ時を生きていることを、大勢の人たちと共有している。

ただそれぞれが見ている世界は、別だ。

たとえ同じ風景を家族と並んで眺めていたとしても、友人と向かい合って食事を味わっていたとしても、風景から目に入るもの、食事の味わい方、記憶に切り取る形、感じ方、まったく同じことは決してない。

それは、私たちはそれぞれが、ぞれぞれの選択をして生きているから。

同じ両親のもとに育った兄弟でも、両親について思う気持ちや語る言葉は違うし、

同じ学び舎を出た同士でも、先生に対する思い出や、学んだことの活かし方、または全く関係ない方向に進むなど、表れ方は人ぞれぞれとしか言いようがない。

現在がどんな状態で在ろうとも、その時点で選択したのは、誰でもない「私」だ。

私が自分の感情で選んだ。誰に頼まれたわけではない、誰かに強制されてもいない。選択した意識はなかったかもしれないし、自分の意志で選択したとは胸を張って言えないかもしれない。

仕方がなかったこともある。そうしないと罪の意識を感じたし、そうすることが最良だと思った。ちゃんと考えたとは言えないと思けれど、私がなんとかしなければと感じたし、助けたかった。自分もそうやって役に立ちたいと思った。

私が選択した。確かにした。

ただ、それは心から「私がそうしたい」ことではなかった。

だとしたら、今この瞬間から、「本心ではやりたくないと思っていることをやっているけれど、それは悪くない。そうじゃなくて、やりたくないけど今の状況では仕方なくやっているんだ。」と正直なことを、自分の本音に言い戻してあげよう。

本心と行動が一致していることがいいに決まっている。

だけど、それを100%することだけが正しいわけではない。

今この瞬間にできることは、本心と言動が一致していなかったとしても、それをダメだと自分を否定することではなくて、一致していないと分かってるよ、その上でそう選択しているんだ、と自分の心の声を言葉にしてあげること。

それを繰り返し繰り返しやっていったら、やりたくないことをやるか・やらないか、初めて「自分の意志で選択する」ことが出来るようになる。やらないことに対して、自分に許しが出てくる。

過去、そうするより仕方がなかった形で「自分が選択した世界に生きている」今の自分を、受け入れ認め、心から抱きしめて愛してあげよう。現在の選択の連続が未来の結果として現れるのだから、その選択を愛していけば、どんな選択であっても、「私が見る未来」は自分にとって愛の結晶だ。