罪悪感を取り去った

感情と共感

老親を見ると、自分がなんとかしてあげないと、申し訳ない気がする。

自分の都合で飲み会の場を先に切り上げると、せっかくの機会を損なうような気がして、他の人に申し訳ないような気がする。

職場での差し入れ。今私は甘いものを控えている。でも断ると申し訳ない気がして、その場で断れない。

申し訳ない気持ち。つまり、罪悪感。
この感情が、ずっと私の背後に覆いかぶさっていた。

そしてこのたび、感情的な距離が近づきすぎると、イライラしたり、ネガティブな気持ちになって罪悪感を生むと知った。

実家の母の元に、ヘルパーさんやマッサージ師さん、作業療法士の方が定期的に訪れる。
その方たちは、とても親身に母に寄り添ってくれていて、母からいつも感謝の気持ちを聞く。

ただ、よくよく思えば、私はヘルパーさんのやっている家事、マッサージ師さんと作業療法士さんが行っている体に関するケアをして、通院に付き添い、身体的な困りごとに対処したり、方法を母に伝えたりしている。

その他、買い物や料理、洗濯、物の配置換え、書類や支払いに関する対応、その他もろもろ多岐にわたり、母の生活に関わることに対処している。

週末に、時々ではあるけれど、泊りで。

そう考えたら、娘だからとあれこれ先回りして、「〇〇しようか?」と言ってやってきたが、母が、「〇〇さんは毎回、『何かお手伝いできることありますか?』って聞いて下さるのよね。とっても助かってるの。」と言うが、
「同じこと、私は毎回やってるけどね。」と思うのだ。

もちろん母は、私に毎回感謝の意を伝えてくれてきた。金銭的にも、私たちに負担を一切かけまいときちんと区別し、自分で払っている。

ただ、毎回、母からそれこそ、「疲れているところ申し訳なかったわね。ありがとう。」と憂いを帯びて感謝の意を伝えられることがあって、それが更に、私に罪悪感の追い打ちをかけた。

ヘルパーさんたちは、仕事で来ている。
だからそういった方が「(仕事以外に)何かやりましょうか?」と言えることはすごいことだと思う。サービス外なのだから。

一方で、私は娘として、主体的にやっている。
そこには時間も、サービスにも制限がないのだ。


ここにイライラする原因があるように思い、「もう疲れたからここまでにするね」とか、「〇時のバスで帰るから、それまでね」とか、少し自分を駆り立てるように力んで線を引き、母に対応してみた。

それでも、実家の玄関を出て、一人になった帰りの車中で、罪悪感が湧いてこない日はなかった。

これがキツくてキツくて仕方がなかった。

こんなに心も体も尽くしてるのに、どうして申し訳ないとか、自分を責めるような結果に終わってしまうのか。私はぜんぜん報われないじゃないーーー。

そこで、もう変わりたくて、私なりに考察してみたのだ。

ヘルパーさんやマッサージ師さんが他人に対してケアできるのは、感情的な自他の区別を付けられているからじゃないか、と。

以前、介護職の友人に、「他の人の介護するってすごいよね」と言ったら、「他人だからできるんだよ。」と、たぶんよく聞く答えが返ってきたのだけど、それを感情の視点で掘り下げてみたのだ。

母に対して、今回の帰省では、『言われたことだけをする、母の要望を先回りして察して、こちらから「〇〇やろうか?」と言わない。』と徹してみた。

そうすると、母に頼まれたことに選別を付け、「分かった。」と引き受けたら、母に”やってあげている”気持ちが仕事のような感覚になり、”母の為にやってあげている”意識と比べたら、作業に意識が集中して、ネガティブな感情が全く差し込まなかったのだ。

母はパーキンソン病の症状で転倒しがちで、父の仏前へ手を合わせに仏間に行くのが不自由だから、リビングに祭壇を設け、父の遺影や位牌、お線香類を設置してほしいと頼まれた。

庭花を切って仏前に生けてほしいと言われ、庭に出て、母から庭木の話をひとしきり聞き、一緒に春の花を愛でる。
その花を飾った花瓶の位置は右のほうがいいとか、お鈴は祭壇の下に置いたほうがお線香を付けるときに危なくないとか、あれこれと二人で相談しながら心地良さを感じる中、設置作業を進められた。

それが、なんだかとても幸せに感じて・・・。

母もとても満足そうに、「ありがとう。あなたのおかげで、とても良い祭壇ができた。これで安心だわ。」と何度も言った。

私はひたひたの感情脳なので、感情に境界線を引くという感覚が難しく、馴染まなかったのだけど、
今回『感情的な距離』という感覚に転換してみたら、感情が近づきすぎていたことが罪悪感の原因、ということが分かった。

母に頼まれたことを全てやるのではなく、私が選別して引き受ける。

そして、引き受けたことはやる、と決める。

そうすると、『母のため』と力む必要がなくなって、自然に、それこそ”心から”心が尽くせ、
私自身がとても満足したのだった。

こんなに”自分が”満足するとは思ってもいなかったので、正直驚いてしまった。

母に苛立つことが一切なくて、お互い傷付くことがなかった。そして、力が抜けているのに、今までより何倍も、母に心から寄り添えたと感じられたし、同じことが母からも伝わって、母が穏やかに喜んでくれたことが、本当に有難かった。

自分が満足=相手も満足、が方程式なんだ。

今まで罪悪感を捨てることが、どうしても分からなかった。

本当に苦しんできたけれど、なんだ、感情の距離の取り方だったんだ・・・

こんな距離感で接していれば、確かに、「ほかにやれることあったらやるよ」と言えたりするのだ。

そして帰宅してから、母のことを思い返さない。やりきった感で充満しているから、母との出来事にピリオドが付けられている。

この「ピリオド」感は、すごい・・・!

一回一回ピリオドが置けることは、『今』を生きていることだから!!

母とのことで、”今、ここ”を実感できるなんて初めて。もう、最高に嬉しい。

こんな感覚を毎回共有していったら、母はどんなに元気になるだろう・・・。

共依存的だったと思う母との関係に、自立的な関係を結び直せる予感がして、希望まで充満してきた。