見える世界と見えてくる世界

見えてくる世界

昨日、江の島へ出かけました。

「江の島」を思うと、真っ先に思い浮かぶこと。それは、

子どもの頃、島の一番先っぽにある磯浜で、波間からあちこち浮かんでいる岩に飛び移り、貝を見つけたり波と戯れたりして、友人たちと時間を忘れて遊んだこと。

ちょうど、キャンドルを灯すイベントの最中だったというのもあって、島には大勢の人が訪れていました。

江の島は、なかなかの高低差がある島で、細い坂はほぼ一本道。両側に連なるお土産物屋さんや食堂やカフェ、食べ歩きの店をウィンドウショッピングしながら、頂上の展望台へと上ります。

登りきった坂を再び下り、今度は小さな幅の狭い階段をアップダウンしながら龍のお宮を横切り、ジグザグ降りていくと、だんだん、あぁ~この感じ、、、なんか憶えてる・・、と高揚感がぽつぽつ。

そして、距離ゼロで太平洋に対面。

「私の磯浜」がありました。

多くの観光客の方々に交じって、歩道に腰かけ岩に足だけつけて、岩と水の感触を感じてみました。

午後3時を回っていたので、海はすでに満ち潮モード。

最初のうちはぜんぜん余裕で潮の満ち引きを眺めていたのに、ものの数分で、足元に波が押し寄せてきます。

なにか”根性試し”するかのように、どこまで濡れないか!?とひとり遊びになって、すごーく楽しかったのでした。

結局私は、”江の島に観光に来た”のではなくて、子供の頃に感じた、あの「遊びの楽しさとそれまで道のり」を感じたかったんですね。だって、この日体験したこと - なめろうを食べたくて並んだ(けど離脱した)、エスカーに乗った、お宮参りした、タコせんべい食べた、展望台から湘南を眺めた、の中で、一番楽しかったのですから。

何を楽しいと思うかって、結局、子どもの頃と変わっていないのかもしれません。

子どもの頃、〇〇が楽しかった、って思い出せることって、ありますか?

それらを大人になった今にすり替えたり、昇華させようとか思わないで、そのまま受け取る気持ちで今の自分でやってみるって、結構大事な体験なんですね。

思いもよらず、自分の素や本質が見えた気がしたのです。

子育てが終わりになりつつあるこの時期まで、「今やっていることは本来の自分と違う」と感じながら、外側の流れに乗らなければと迷い、さまよい、もっと外に外に「何か」を求め、自分を見失っていました。

だけれど内側には、自己を取り戻したい、と切迫している自分も、常にいました。

満ち潮が加速して、波はどんどん足元に押し寄せます。刻々と変化していく様子が、目の前で見える。自然て本当に神さまの領域なんだと、畏怖も畏敬も併存する凪の気持ちになる。

肉眼で見える世界で、素の自分が見えてくる。

そんなふうに心が凪の状態であるとき、ポジティブもネガティブも、自分の内側も外側も、ないんですね。

海も空も、そこにいる大勢の人たちも、すべて一体化しているように感じました。

そんなことを、これからこのブログで綴っていきます。