過去の傷みに想う、25年目の秋分

日常の気づき

私が娘を亡くしてから25回目の秋のお彼岸。

その日私は産後の入院措置で泣き伏していて、焼香に行けなかった。

私はあの子が焼かれたあと、お骨を少しだけ分けてもらい、小さな壺に入れてもらった。
夫が私の望むイメージを聞きとって急きょ買ってきてくれた、ころんとした形の薄黄色の茶瓶。

器を開けるたび、ふんわりと澄んだ氣がほのかに寄せる。純真な魂がさまよわないよう、そっと見つめる。それは、この世にほかにない、純白の薄い貝のよう。

たしかに私はその子を胸に抱きとめた。とてつもない現実をその両手に実感しながら、これは本当にじぶんに起きていることなんだろうか?と湧き上がる疑心疑念を、当てる先もないのにぶつけていた。

それから1年間毎日泣いて暮らした。どうしようもない、言葉にならない感情にまみれて、ノートに書いて書いて吐き出した。その一方で、社会的な自分ていうのがいつも付いてまわり、早く復帰しなくちゃ、、という思考で自分を急き立てていた。

そのことを受け入れるとかどうだとか、そんなものはその後、息子が生まれてから10年くらいたってもできなかったし、娘をすごく気にしながらも、あの子に触れられない、避けているじぶんがいた。いたたまれない罪悪感で、長い間、茶壷を開けることができなかった。

そしていま。

リビングに一緒にいてもらっている。

電子ピアノのすそで、家族の会話や不和や、私のへたくそなピアノや歌を聞いてもらっている。

毎日なんとなく話しかけている。

なにかあったときは聞いてもらって、「ありがとうね」と抱きしめてチュっとする。

その唇の冷たい感触の先に、夫が急ぎ買いに走ってくれた、その気持ちに想いを馳せる。

———

悲しみや苦悩は、時が経ったりなにか別の幸せで上書きして解消するとかではなくて、その物事をきちんと感じ切ることが必要なのだと、今になって、五臓六腑に落ちている。

どんな形になっても、じぶんを責めることだけは必要ないということも。

私はほんものの「愛」を探求しているようだ。内側に湧きでている感情を我慢して抑圧した上の、気遣いとか犠牲とか罪悪感とかそういうことではない愛。そんなことからとことん感情の振増幅を味わう人生脚本にしていて、感情を解放して自由であることを、じぶんに許すってことをやってきていた。

ここにこうして自分の中ではものすごくキツかったことを書けたことも、在るがままの自分と感情をわたしが認め始めた表われなんだ。

今日は秋分だから。

自分に向き合って、じぶんを一番大切な存在だと認めよう。

それはとても尊い意識だから。そんな意識が周りに伝播すると、そんな周波数に同調する世界ができてくる。そして全体意識がお互い(の違い)を認めて、大切にし合う。それがほんものの愛。

じぶんを大事にしよう。

娘はもうとっくに生まれ変わって、新たな人生経験をどこかで始めている。

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