この間、実家を交えた身近な人たちとの集まりがありました。食事をして、みんなでプチ観光みたいに楽しんだあと、女性の従妹同士でお茶をしようとなったときのこと。
そのとき、Uちゃんが悩みを話し始めたんですね。私にとっては既知の話。
その間、黙って聞いていました。
Uちゃんは次第に感情が昂ってきて涙と怒りでものすごい形相になり、真横で見ていた私は、その気迫に悪寒を感じるほど。
人のマイナス感情って、こんなにも燻されたような重くて低い空気に取り込まれる感覚がするのか・・・。
感情を吐き出せたら本人から少し毒気が抜けて、体内の空気が入れ替わり、心身を回復させるために必要なことではあります。
私は感情に流されず冷静に聞いている一方で、私の個人的な課題として、相手の感情を受け取りやすい。相手の感情の形成を理解しようとしてしまいます。
まるで個人セッションをしているような前提になり、私は心の中で、因数分解し始めました。
話のテーマを見つけて仕分けて、テーマごとにそれに対処していく人物を置き、具体的にどう対処するのかを思い浮かべて当てはめていきます。
そんなことをしていると、IちゃんがUちゃんの感情に寄り添った、心が和む言葉をUちゃんに向けました。
Iちゃんは率直で飾らない人で、原点的に心が温かいのです。・・・Iちゃんの対処法を聞きながら、Iちゃんは私よりUちゃんに近しい立場だし、そういう話をして差しつかえないだろうな、というのと、こういう話でアドバイスしていいんだ・・など、ちょっと離れた視点から思っていました。
正直、言いたいことは山ほどありました。
助言できることも少なからずある、と感じていました。
ただ、私が話そうとする内容を、Uちゃんが受け容れられるかな・・と。
Iちゃんの話で私も心から同感するところがあって、それは、自分がどれほど相手を想っているのか、そんな気持ちだけを届ける、という点。
家族内の複数が関わり、そして自分は問題の中心ではない、あくまでも外側から能動的に関わっていく立場を前景にして、「感情」とか「気持ち」を誰かから引き合いに出されたことは、心理学の仲間以外からでは、初めてのこと。
ただ、全面一致ではありません。
どっちが合っていて、ということを言いたいのではないです。
私は何もアドバイス的なことは話していないのだから、今Uちゃんが聞いているのは、Iちゃんの見解。
そんなIちゃんの話を聞いている最中も、私は自動的にテーマを見つけて仕分けしている自分を感じていました。
Iちゃんに、「気持ちだけ伝える点は、私も心からそう信じているよ。」とだけ話しました。
三人で話しをしていて、疎外感を感じることはなかったし、私のことも抱きしめて励ましてくれ、理解してもらえて救われました。ありがたい・・・。一方で、途中でとても疲れてきて、もう帰りたいな、と思い始めました。
結局話しはU-Iちゃん双方間が主として流れました。
というか、私は少し、別の立ち位置から眺めていた、というほうが描写として正しい。
そんな時間が4時間くらい流れていきました。
翌日、Iちゃんの言動で元気になったUちゃん、尽力したIちゃん双方からメッセージが送られてきました。
二人とも文面が弾んでいて、元気になったのが感じられ、本当に善かった。
ところが私は、次第に顎が痛くなってきたのです。
右上顎付け根あたりの関節がぎくしゃくしていて、少しずつ腫れ始めました。過去、数回顎関節症になったことがある。でも今回は、口の中が腫れて歯や舌の感覚が少し麻痺しているような、歯科治療で麻酔を注射された後のように口腔全体が浮き、嚙合わせることができない。
これってただの顎関節症なんだろうか??
そんな日に限って帰宅のJRが人身事故で止まり、通常より1時間かかって帰宅。夕飯に固い肉類は食べられず、冷凍食品の中華丼のあんがあって、これをチンして食べました。
食べながら、この顎の炎症はなんだろうか、ずっと考えていました。
前述したように、Uちゃんの話しで助言できることはあるけれど、ここで話すことが適切と思えず、彼女自身も受け止められる状態ではないと思い、話さずに内面に留めていたこと。
そしてIちゃんにも、自分と考えが異なることに、ここでも話すことが適切なことか迷い、結局話さなかったこと。
私は途中でもう疲れて帰りたいと思ったとき、ここで言うと空気を乱すと思い、最後まで留まりました。ここで、自分の希望を叶える言動を取らなかったこと。
そうやって自分を内側に留めたことで、そうとう顎にストレスがかかったのではないか・・・
そんな見立てをしたんですね。
そして、その時の状態を再現してみました。「言いたいけど、言えない。」とき、自覚していない状態で、グっと奥歯を噛みしめていなかったか、と。
それが何時間も続いたとしたら・・・
Uちゃんは私の右側に座っていた。だからこそ、右側の顎に出たのかもしれない。
結論として。
私は「もう疲れてきたから帰りたい。」と思ったとき、自分のそんな願いにこそ寄り添って、サッと帰ればよかった。シンプルに、ただそうすれば良いだけでした。
こと誰かの役に立てると、すごくうれしい。とりわけ、その人がすごく困っていたり悩んでいるとき、少しでも力になれたり、解決策を示すことができて、そのことにすごく感謝が返ってきたら、なおのことうれしくなる。
それが、本当に助けになりたいのか、または自己効力感を覚えたり、よく言われる「無価値感」を埋めようとする行為なのか。
やっぱり、自分に無理している感覚や、犠牲になっている感覚があったときは、後者。
困った人に親切にしたり、困難に面した人にアドバイスをしたりすることは、誰でもあると思う。
でも、人のことを考えて先回りして、その人の心身の状況に気を遣ったり、相手を慮ってアドバイス「しなかった」のに、なんだか置いてきぼりとか、ちょっぴり報われない気持ちになるって・・・。
幸せな人生のために、幸せな人間関係のために、最もやってはいけないこと。それは
「犠牲」。
私のメインテーマです。
今年中に、犠牲をしないことを無意識にインプットします。