過去が書き換わっていく

見えてくる世界

過去のことでふと、何かにつけて繰り返し思い出していたことがありました。

子どもの頃、友だちと漫画の貸し借りをしていた。
その頃は平日子ども達だけで行き来できる場所にいなかったから、週末親に車で送ってもらい、どちらかの家で遊ぶような感じ。

当時仲良くしていたクラスの一人の子と交換日記をしていた。その子と引っ越しで離れたあと、なぜだか日記が私の手元に残った。

私はそれを、大人になって移り住んだ場所から場所へ、本と一緒に伴っていた。

その日記には、私はいつものように友だちに漫画を貸さなくて、子供ながら応酬を交わしていたことが書かれていた。

日記の中で私は、読みたかった漫画がやっと手に入ったことが嬉しくて、そのことを友だちに話した。すると、友だちが貸してと言ってきた。まだ買ったばかり、新品である。その漫画を、貸してあげたい気持ちはあるけれど、新しいそれが、汚れたり傷んだりするのがいやだった。

それをそのまま書いて伝えられたら良かったけれど、「まだ新品だから貸せない」と書いた。そしたら返事で「減るもんじゃない。貸して」。「貸したくない」。「ケチ!」と書かれた。すごくショックを受けたのを、今でもはっきり覚えている。大人になって読み返しても、やっぱり衝撃を受ける。幼い私はこの一言にすごく傷付いた。

そのとき私は、「嫌なものは嫌!」と最後に書いていた。

その子とは日記の中で「この話はやめよう」と仲直りしてこの後も仲良く遊び、帰国後も親同士が会って、近況を聞いたりしていた。

ただ、私はそれこそ長いこと、『貸せばよかったのに。私って悪人なのかなぁ・・』と思い出しては考えることがあった。

今、心理と意識を学び、感情を感じ取ることを継続してきて、そしてとっくに大人になって、思う。

「貸してあげたいんだけど、今はまだ買ってもらったばっかりで、まだ貸すのが嫌なんだ。だからもう少し待ってね。」と言えればよかったんだ、と。

そうだ。自分の本心を言える家庭環境ではなかったから、小学生の時点で、自分の気持ちを話すことをすっ飛ばして本心だけ言ってしまい、相手に誤解されてしまった。その誤解を解く術なんて、分からない。相手の怒りに反応して、感情をぶつけるように伝えてしまったんだと思う。伝え方が分からなかったよね・・・。

最近までずっと、自分の事情や状況をちゃんと話すと、他の人に疎まれる気がしていました。

人は、私の話なんて興味ないんじゃないのかな、って。だから早めに切り上げてあげたほうがいいだろう、と。

先日のブログに書いたこと。私はすでに、小学生の時に自分を端折るクセを付けていたのですね。

それに気が付いたら、急にその日記の出来事の映像に、パーーーーーっと光が差し込んだのです。

そっか。これは『善悪』の話じゃない。

貸さなかったことがダメ(悪人)で、貸せば良かった(善人)じゃなかったんだ!
この出来事のテーマは、「本当の気持ちを端折らずに伝えられなかった」ことだったんだ!

自戒と共に仕舞いこんでいた過去から、真実が現れた感覚。

これがきっと、『過去が書き換わる』ということ・・・。

そしてこの腑に落ちた感覚を、家族、友人、職場、心理のセミナー、歌のレッスン、私が所属しているあらゆる遠近あるコミュニティの中で、お互いに気持ちを伝えあって、お互いの在り方を尊重する、そんな付き合い方を実践し、広めていくことに転化していく。

このことこそが、この経験から学ばせてもらったことだったんですね。

感情を感じて、感じて、感じ切ると、蓋をした感情が外に出てくる。そうすると、

自分の過去の意味を、自らが紐解いていける。

そう認識を新たにし、改めて日記を探して読んでみようと思いました。

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あれ!?

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日記は?

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日記が、本棚から消えた。