誰の意識で生きてるの?②

感情と共感

子どもの頃の家族旅行は、父が行きたい場所に行き、旅行の手配もして、家族はそれに従っていました。興味があったり、つまらなかったりといろいろありましたが、ともかく父が独断で全て決めていました。

パートナーは真逆で、自分の行きたい場所、見たいもの、体験したいことをあまり言いませんでした。

私はそんな彼の性格を分かっていて、こっちが言ってあげないと、困るのだろうと思っていました。

私や子どもが提案し、彼はそれを遂行することに精力を尽くすようでした。

私たちは願いが叶っているはずのに、どこか楽しめないし、嬉しくなかった。

何か、先生に引率され、さあ連れてきたよ、じゃあ楽しみなさい、みたいな感覚。

ここに来ることが目的みたいに、ここで何したい、これ食べたい、が彼からなかなか出てこない。

だから思ったのです。私は、彼が私たちを連れていきやすい場所や行程になるように配慮して、提案していたな、と。

そんな父とパートナーの意識を、私は取り込んでいた!と、母を小旅行に連れて行ったときに気付いたのです。

私は確かに母の希望どおりに計画しました。でも、母に、こんなプランだけどどお?と相談しなかったし、私が〇〇したいなぁ~と思うことを、一つも入れ込みませんでした。

この旅行は母のためであって、私のためではないと思っていたから。

私は母に負担にならないよう、練りに練ったプランをこなすことに一生懸命で、自分が楽しむなんて、考えていませんでした。

そんな私の必死さが母に伝わって、ありがたいけれど私に申し訳ない…と思わせてしまい、母は楽しめなかったんだ・・ということが、今、やっと分かりました。

相手が決められないから、相手のために私が決めてあげる。それは間違っているんですね。たとえそれが、相手のしたいことでも、自分のしたいことであっても。

最初の意識が「相手のため」から始まると、自分の感情がスッポリ抜け落ちてしまう。そうすると、わ〜楽しい!きゃ〜キレイ!!と、トキメキの気持ちなんて絶対湧いてこない。だって、その日は一日中、「相手のため」に捧げている。だから、相手の反応ばかり追ってしまうんです。

母に桜を見せてあげたい!と、心から自分が願ったなら、

母と一緒に楽しい時間を過ごしたい!が私の本心であり、母の本当の望みでもあったはずでした。

だったら、そのプランに私の希望もちゃんと入れて、母と相談して決める。

ここが抜け落ちていました。

父は、自分の欲求を満たすために独断で家族を帯同させたように感じていましたが、父が一人で行かなかったのは、本当は、その場そのときに湧き起こった感情を、家族で共有したい、と願っていたからなのでしょう。

無自覚に。

だから本当は、父だって、満足していなかったんじゃないのかな・・・。

パートナーにも、したいこと、思うことを自分の感情を基準に言えるようになることを望んでいるし、そうなれたら、祝福を贈りたいと思います。

相手を想い、相手のことを感じながら、自分も自分のために行動していない(自分の欲求を叶えていない)ときは、自分を作為的に感じて自分を見失ってしまうし、相手への想いも報われない。

自分が大切に想う人と、愛を交歓したいなら、自分の気持ちを大切にすること、なんですね。