誰の意識で生きてるの?①

感情と共感

今日のテーマが理由で、4月からブログが書けなくなっていました。

でも個人的にはとても重要な発見なので、
できるだけ、率直に書いていこうと思います。

私は自分がときどき「作為的ではないか?」と感じることがあって、ずっとわだかまりがありました。そのことが自分自身を、密かに不安にさせてもいました。

何について、どんなことにそう感じるのか。それ自体が不明瞭で、輪郭がはっきりしない。ピンボケの写真からどうにか手がかりを探すような気持ちでした。

それが、4月に入って唐突に、その心象画の焦点がカシっと合わさり、中央にぎゅっと凝縮され、より密度を増した映像として露わになったのです。

昨年の春、母が「小田原の桜が見たい」と言いました。
母は病状の関係で、一人で遠出が難しい。だから私は休みを取って母を小旅行に連れだしました。

母が「お昼は鰻が食べたいわ」と言ったので、幻の「共水うなぎ」を提供している店を予約しました。また、『ういろう』の丸薬を買いに行きたいと言うので、ういろう本店へは駅からタクシーに乗り、そこで時間はこれくらいかかるだろうから、その後歩いてうなぎ屋に行くには何時には出て・・・と、タイムスケジュールをかっちりと決めて、実際ほぼその通りにことが運びました。

母の望みどおりのプランをこなし、うなぎを食べたあと小田原城に行って、お城の広場に咲く桜の木の前で写真を撮りました。無事、旅程は完了です。

ですが母は久しぶりの遠出なのに、あまり楽しんでいない様子。
そして私も、ぜんぜん楽しくありません。

ーーーそう。「無事、予定が完了した」という気分でした。

願望達成、工程遂行、つつがなく終了しました。
確かに望みは叶えてあげられたけれど、今から思えば、決定的に「あるもの」が欠けていました。

それは


「楽しい!」「うれしい!」と、わくわくして明るく笑顔で満ちた「感情」。


せっかくの共水うなぎ。一人前7千円の特別な鰻を母に食べてもらえることがうれしくてうれしくて、予約したときは心底気分が弾んでいたのに・・・。

このとき、母の身体を第一に考えて計画し、負担のないようにと気を配って、電車の時刻や店の予約など準備を万全にしました。にもかかわらず、なぜ、母も私も満たされない・・。なぜ私は頑張ったのに報われないんだろう・・・。徒労感ばかりでした。

その答えが先週、唐突に現われたのです。

それは、
「私は、身近な人の意識を無意識に取り込んでいる!」ということでした。(つづく)