自分を語るとき、意識のベクトルはどこを向いているか

見えてくる世界

この5月は、自分のこれまでの経験を人に話した、記念すべき月となった。

今まで、ごく限った人に、自分の身に起きたことを話すことはあった。でも、長く深くは語らず、散文的で、細やかには話してこなかった。

自分でもその経験を処理しきれていないと感じていたし、とても表現できないという自分の内部の理由ではばかられてきた。

もう一つ理由があった。

これまで私は、自分を外側と内側と明確に分けて生きてきた。

外側に自分を表しても受け入れてもらえず、話させてもらえない。理解してもらえない。少しでも自己を語ると傷付く。源家族でそんな経験を重ねた。

だから、自分が何をどう感じ、どう思っているか、本当の自分の声はいつもノートに綴って自己対話をして収めてきた。

だけどこうした内観的な作業に留まっては、自分を救えなくなってきたのだ。

心の泉がふつふつと沸きだし、マグマ化した雫がところどころ重力に逆らって逆噴射するのを感じるようになっていた。「私は正直に発したい。」

先月、友人Aに話を聞いてもらいたいと言われ、彼女が直面している困難を3時間、みっちりと聞いた。

難しい問題を赤裸々に話してくれて、私は彼女に信頼されていると感じとてもありがたかった。

それから今月も予定があって再びAに会った。それが、私が他者に自己をつまびらかにする記念日となった。

私は自分を語る時、もしかしたら自分は暴走するのではないかと恐れていた。幸い、それは杞憂だった。話しは一定の疾走感を持って湧き水のように流れた。彼女はほとんど口を挟まず私が話すのに任せて聞いていた。話に強弱長短を付けつつもほぼオープンに話し終えたあと、思いもよらないことに、私の内面には、緑で覆われた、豊潤で広大な山麓のような広がりが生まれたのだった。

Aに話したことでこんな感覚が引き出され、Aに感謝しかない。さらに、私が話した私の経験は、どんなに辛苦で傷みを伴ったかもしれないけれど、もともとはそんな感情体験をも抱合する土壌が私の内側にはあって、そこは、多様な経験から体感した喜怒哀楽を持って森羅万象を内包していたことを、ただ私が客体視できていなかったに過ぎないのではないか。

そんなことを感じた。

話して分かったことがもう一つある。

話すときに意識が向かう方向が変わっていたこと。私はだいぶ自己理解が進んでいて、この物事でどんな感情を抱いたか、そしてこの物事が生じた(私や私の周りの関係者の内面的な目的で起こしたこと)本当の理由を承諾してきたことから、他者に「私のことを、分かってもらいたい。」という願望がすっかりなくなっていたことだった。

だから、話し方が、「私はこうだったの、ああだったの・・」と未消化な感情に煽られるようなことがなかった。

「私、こんなに大変だったの!そんな私を分かって!。」相手の話ぶりから、そんな感情を感じることはないだろうか。私は、女性が相手の時にしばしばそう感じることがあって、その押しの強い感情を受け止めてしまい、へとへとに疲れることがよくあった。そして相手と心の距離を適正化するために時間を要したこともあった。

相手に、「分かってほしい」という感情を向けることは、相手を攻撃することと同義だと思う。

自分の感情を受け止められない相手に、「なんで分かってくれないの!?」「全然分かってくれないんだ」と思い放つことも、お門違いだ。

私はかつて、人生で一番しんどい経験をした時、それは、子供を亡くしたことだけれど、「なんで分かってくれないんだろう」と他者に絶望したことがあった。

友人が私の一報を知り、自宅に駆け付けてくれた。私は自分からほとんど話すことが出来なかったから、彼女が私の話を聞き取った。それから彼女は、焦燥しきっていた私を部屋に残してベランダに出て、普段吸わない煙草を吸い始め、私に灰皿を求めた。

私は何か、悲しみの演出を見せられているような気持ちになって、この状況下で不可解さをやり過ごすことができなかった。

その後、この煙草の件で彼女と口論し、友人も無くした。

自宅に駆け付けてくれた彼女の思いやりは、しばらく経ってから、胸に想った。

今になって思う。

あの時、とても一人では抱えきれない悲しみに直面したのだから、より一層、自分の感情をノートでもいい、書き出して書き切って、悲しい、辛い、苦しい、この先どうしたらいいか不安で仕方ない、もう生きていたくない・・・そんな気持ちを全て、自分が受け止められるまで、受け止めて続けてあげる必要があった。

それが出来るまで人に話してはいけない、ということ言っているのではない。

「私が私を癒し、徹底的に自分に寄り添う」ことをせずに、他の誰かが、私が望むように私に寄り添い、癒してくれることはあり得ない。

だから、私が私と必ず一緒にいる。私が自分を守る。それを心に約束し、標準とすることが何よりも必要なことだったと、無意識の世界を学ぶ中で、自分の感情に気付き受け止めることを常にしてきた暁に、十数年かけて、やっと腑に落とした。

そんな土壌の上に立ち、自分のために感情を表現しながらAに話が出来たのだ。

私は自分の変化を感じた。

そうしたら、何が起こったか。

Aから、「そんな大事なこと、私に話してくれてありがとう!!」と言われたのだ。

泣きだしたA。私のことを思わず抱きしめて。

私は、こんな話を聞いてもらったのに、感謝されるなんて・・・しかも、心を震わせて抱きしめられている。Aの体温を感じながら、この状況で愛が返ってきたことに驚き、とまどった。けれど、「・・この愛を受け取ろう。」と思い、私を抱きしめる彼女の腕にそっと腕を回し、頬を預けた。彼女の身体から、少し力を抜いていたり遠慮が感じられる感覚はなく、私は、彼女が大切な花のブーケを抱えるように私を扱っているのを感じた。

自分が自分自身に愛を感じながら話すと、相手には普遍的な愛が伝わるようだ。

彼女はその後のLINEで、私がどんな経験からも、「〇〇(←経験に関わった人、例えば子どもや母親)が私に必要なことを気付かせてくれた。」と言った言葉が前向きで、とても心に残ったと伝えてくれた。

私は今、長い長い年月を経て、やっと自分自身に、感情や感覚に誠実に寄り添えることができるようになり、ようやく生きる醍醐味=ダイナミズムを感じ始めている。