母親という存在

見えてくる世界

セッションの中で、悩みや問題の根っこを探しに行くと、母親との関係に行き着くことが多々ある。

それは、母親という存在が、本人が生まれて初めて接する「世界」だから。

その母親との関係性が、世界と自分との関係性になる。

私の場合を話すと、母は、父の要求にものすごく高いレベルで応えるよう、父に対して従属的な立場に置かれ、父親に心身を束縛されていた。私は小さい頃、そのシーンを見たとか覚えているとか記憶にないけれど、それ以外の家族の記憶もがすっぽり抜け落ちているため、もしかすると、とてもキツイ思いをしていたのかもしれない。ただ、母は思春期を迎えた子どもたちを前に、父や当時同居していた祖母について愚痴を語り始めた。

その愚痴や不平不満が、私にはとてつもないショッキングな話しであった。

私にとって父は、世界を堂々と渡り歩き、怖いものしらずな行動派と映り、尊敬の対象だった。

それがその日以来、父への見方ががらりと変わったのをはっきりと覚えている。

要するに、母のフィルターで父親を見るようになった。

そして、母親を父親から助け出さなければ、とどこかで思うようになっていった。

・・・

そして月日は確実に流れ、私は自分の家族を持った。両親のサポートを受けながら自分の子ども時代に子育てを重ね、育児に悩み(子そのものに悩んだというより、子どもを介した夫婦関係)つつ子どもは成長し、私たちは中年期になった。

その間、母は私に父の愚痴を言い続けた。

母の在り方は「被害者」だったと分かったのは、私が自分自身の苦しみをある程度直視できるようになってからだった。それまで私は母に、父への悩みに「こうしたらいいんじゃない?」とか、「こう言うといいよ。」など、心理学を勉強している中で得た知見や自分の経験を基に、母に助言し続けた。

やっぱり母を救いたかったから。

でも母は、助言が欲しかったわけではなかった。それも、だいぶ後から分かったこと。

母はただ、愚痴を言いたくて、聞いてくれるのがただ私だけだったから、それに甘んじていただけだった。

そんなことをやっているうちに、だんだん私が自分自身に「あれ?」と不和を感じるようになっていった。

自分がどう感じているのか、何を思うのか、何をしたいのか、よく分からなくなった。そして、次第に自信をなくし、自己信頼が低くなって、自分の選択がこれでいいのか、この決断でいいのかが信じられなくなって、生きていて不安で不安定な状態に陥っていった。

その間も、私は母の愚痴を聞き続けていたのだった。

母に何度か、「愚痴を聞きたくない」と懇願したことがあった。それでも母は、愚痴を言っている自覚がなく、口を開けば父の(母から見た)悪行、困っていることに終始した。そして私があるときブチ切れて、「愚痴を言うのをやめて!」と強く放つと、「私は誰にも愚痴を言っちゃいけないって言うのー!?」と、これまで聞いたことのないような、怒りや憎しみや様々な悪感情が入り混じった語調に乗せて、母は絶叫した。

愚痴はそもそも、父に話すべきものだ。あの悪感情だって、私ではなくて、父に向けるものなのに・・・

私はいつの間にか、母と全く同じく「被害者」に意識が変わっていたのだった。

だから私にとって母は「加害者」のようになっていった。

それでも当時の私は、自分にとって「加害」をするように映る母を、なおも「庇護」しているという、相反する感情と行為の違和感に自己分裂するように苛まれながらも、それを感じつつ、ものすごく押さえつけて、この世の最高レベルの「我慢」に封じ込めて生きていた。

だから私は、自分が何がなんだかまったくわからなくなってしまったのだった。

・・・

ここまでは、まぁまぁある話しではないかと思う。共感してもらうことがたくさんあったから。

でも、そんな共感を持って接してくれた方たちは、そのほとんどが、母親との関係を断つ方向に転換し、結果、被害者を手放してすごく楽になり、人間関係が圧倒的に好転した、と話す。

一方で私はつい最近、母に私の感情や帰し方を丁寧に話をした。

母は、私が激情に押されて投げつけるように吐露するわけではなかったこともあって、辛抱強く聞いてくれた。母は元々、穏やかでいつも笑顔で接してくれる人。だけど自分を抑えてきたことから人の感情や感覚に非常に鈍感だ。だから私の辛さが伝わるのか、私も自信がなかった。

・・・私の話を聞き終わった母は、涙が流れる目頭にか細い指を添えながら、「あなたを辛い目に遭わせてきて、ごめんね・・・。」と言ったのだった。

このあと、私も涙を流して「聞いてくれてありがとう!」と言い、お互い両手を握り合ってハグをした。細くて華奢な母の背中。骨粗しょう症のために私より低くなった母の肩の位置。

こんなことがあって、私は母へのわだかまりを手放すことができた。

ただ、それで全て荷が下りた、というわけではなかった。

私は母の在り方をコピーしていたと気付いたので、日々手放すことを意識しているが、母は相変わらず「被害者」を続けている。その被害者意識で私に接してくることが、もうその在り方を顕在化させた私にとって、猛烈に苦しい。

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私は毒親という言葉が好きではない。母の置かれた立場や状況を心から理解しているし、父に対しても、母は拒否する選択をしなかった、ということもシンプルに事実だからだ。

ここではあまり詳しく書かないが、父に対して母のフィルターでしか見れなかったことに、今になって悔やんでいる。私は、父は私を愛していると感じていた。だから一方的に母の味方になることに違和感があった。だけど父は父で、子どものような愛情に心底飢えていて、その感情に応えようとすると私は心身が消耗するのを感じた。母は、父の前では反発するような態度は見せず、むしろ上手くやっているように見えた。私に話すときとの一貫性なき態度に、ずるさを感じた。私は母のように、態度を適宜変えることが出来なかったから、両親の関係性を目の当たりにすると、なにか人の脆さと、根源的な信頼が崩れていくような気がして、それが自己の存在を揺さぶるような振動で伝わり、とても言葉にできなかった。

・・・

母と仲良くなって、終わり。は、私が求めている終結の形ではなかったことが分かった。

私は、つきとめたいみたいだ。

私が被害者をやめて、自分を大切に生き始めたあと、母との関係性がどう変化していくのかを。

それは私が、母親を基盤に作られた世界を、母親が存在しながら、どんなふうに創り変えていくのか、ということ。

そして私が、出てきた関係性を手放して、新しい世界へ行く選択をするのか。

母を信頼し、母の在り方をもっとはっきりと認めて。

たぶん、その形を眼にすることは、そんな遠い話しではないと確信している。