定期的に通っている歌のレッスンの帰り、教室の入るビルの入り口で、同じレッスンの生徒さんに会った。彼女はお孫さんがいる年代の方。一見控えめに見えるけれどさっぱりとした性格で、私は彼女の言葉遣いから、優しい心を感じていた。
自動ドアの辺りであいさつを交わし、彼女は「その後、お元気ですか?お父様が亡くなられて、先生もご心配なさっていましたよ。」と声を掛けてくれた。
父が亡くなったのは昨年のことだったが、そのおよそ一年後に歌の発表会があった。
私は父に初めて連れられて観たミュージカル『キャッツ』の”Memory”を発表曲に選んでいて、少しだけ、このエピソードを話してから、歌に入ったのだった。
そしてその後のお茶会で、父のことを悼む言葉と一緒に、「お父様のことを思い出して、よく泣かずに最後まで歌えましたね。お気持ちを思うと、こっちが泣きそうになっちゃった。」と言ったのが、彼女だった。
私のほうでは、父を感じることはあっても記憶として思い出して悲しむことはなかったため、出会いがしらのそんな言葉掛けが思いがけず、すこしびっくりしながら、瞬間、「なんて優しい気持ちを向けてくれるんだろう」と、暖かい気持ちでふわっと包まれた。
なのに、私は「ありがとうございます。もう亡くなって一年経ちますのでね・・・」なんて、素っ気ない言葉を返してしまったのだ。
彼女は「そうですか。じゃぁ落ち着かれてよかったですね。お母様を大事になさってくださいね。」と言って、これから妹と台湾に行くのだと、大きなスーツケースを押しながら会釈して、館内に入っていった。
私は感謝の気持ちでいっぱいになりながら、「どうして私は、あんなふうに親切な言葉や行為に対して、下手な返事をしてしまうのだろう」と、自分の内面に潜っていった。
そして、昨日も同じようなことが起こった。
心理の勉強会の後、仲間と一緒に駅まで行った。改札に入り別れるまえ、勉強会の最中に感じていたことを彼女に聞いてもらいたくなって、「少し話してもいい?」と訊いた。彼女は、「いいよ。じゃ、ちょっと端っこに寄って話そうか」と快く応じてくれ、私は話をした。
私の話を聞いて、彼女は、「私だって同じこと思うことしょっちゅうあるよ!」と共感してくれ、心理の先生や会を取り巻く状況を背景に、私を力づけ、励ましてくれた。
聞いていて、涙が出た。
ホッとして、安心した。
こんなふうに、自分がネガティブに思っていることを、仲間に話したのは初めてだったから。
ただただ、ありがたかった。
それで、「ありがとう・・・。」と言った。
繰り返し、ありがとう、と。
それ以外に、なぜか、言葉が出てこなかった。
感情を感じて言葉にすることが大事だから、なるべく実行しようとしているが、こうして、暖かい気持ちを受け取ったとき、自分の気持ちを素直に言葉にしてお返しできない自分に気が付いた。
相手に対してマイナス感情を感じることの方が、どちらかというと敏感になっている。ポジティブな感情は外側に放射されて内側に溜まらないけれど、ネガティブな感情は内側に抱え込みやすい。そして心に染みを作り、どんどん溜まっていって苦しいからだ。自分の育った環境が強く影響しているのだけれど、マイナス感情を感知するアンテナを張り、受信する筋力を鍛えてきた。
それを外側に放つ努力よりも、筋トレを必死にやっていたんだ。
そして、もう一つ鍛えているのは、「相手のため」「相手を慮って」物事を考えて対応する『犠牲筋』。
せっかくの贈り物を受け取ったのに、プラスの感情を表せなかった。
私も、感情を抑え続けてしまったから、細胞と同じように感情を失ってしまっている。
それも、ポジティブな感情を。
このことが、なによりも一番辛い。
暖かい気持ちを送ってくれた彼女たちは、私のことを、感謝で受け取られたと感じなかったのではないだろうか。否定されたように、映ったかもしれない。
次に会った時までに、その時に感じた感情を丁寧に紡ぎ直して、彼女たちに伝え直してみようと思う。
自分を守るためにネガティブな感情がある。これは本当に大事なもの。
ただ、もうマイナス感情に偏ってフォーカスするのは、今日で終わろう。
よく、今日一日幸せを感じたこと、幸せを与えられたことを日記に書くことを推奨している記事があるけれど、
プラスにフォーカスするための習慣づけだよね。
意識を向けたことが現実化するのだから、心からプラスに焦点合わせたら、そうなるだろう。
意識=現実化、を実際体験していて、信じているのだから、意志を持ってやればいい。
人と愛を感じて生きたいと願っているのなら、人の好意や愛を受け取れないと、世界観はずっと変わらないよ。
これまでの学びは、愛を集大成にしたいのだから。