ただ、いるだけ。

感情と共感

今日もブログに来てくれてありがとうございます。

このところ、毎日コーチングのセッション練習をしています。

相手の人が私に向けて話しをしている中で、本人の過去に原因や理由を発見したり、まだ膿んでジュクジュクしていた傷や克服した傷跡に気が付いたりして、私の問いかけから「新しい視点を持てた」とフィードバックしてもらえると、とても励みに感じます。

自分がクライアント役になったときは、誰かとの間に起きた、解消していないわだかまりが生じた出来事を正直に話しています。

私は10代の頃からノートに心の中で感じたことを日々書き留めてきていて、これが内観になっていたことを随分後になってから知りました。それでも、その内観が自分にばかり向いていたこともたくさんあって、自己の中だけで留め、外側の世界では「ソトヅラ」仮面を外せないままでいて、同じような辛い気持ちになる経験を繰り返してきたことは、もう数知れません。

不思議なんですが、プロのカウンセリングを受けたときと、こうしてセッション練習でクライアント役として受けたときと、腑に落ちる深度が上がる感覚を得ています。

友達に話す、グチや悩みの相談じゃない。カウンセラーに向けた、解決を目標にした固さはない。なにより思うのは、コーチング仲間に話すときに、自然にいる自分です。

みんな誰もが、ここに集うまでの人生の中で、各々の心のつまずきを何らかの方法で向き合ってきた仲間たちなので、誰と組んでも、そのつど私にとっては大きな感情体験となります。

なんていうか、こんなふうに力が抜けた感覚で、自分の感情が揺さぶられた出来事を率直に、そして素で話すという体験が、私には「初めてなこと」だったんですね。

振り返って感じることは、大人になってから、ずうっと聞き役(受け身)に回ってきました。そんなキャラだっけ?と内心問い合わせているんですが、じっくり黙って聞いて、その人が満足して話終えるまで待ってあげてきました。余計なツッコミは決していれないで、場の空気を揺らさないように、相手の気配に伴走してきました。

一方で私は、誰にも自分の困ったことを、感情体験として話してこなかったんですね。

こんなことがあった、ということは話してきた友人はいます。でも、自分が話すこと自体を自分が負担に感じたりして、聞いている相手の気持ちまで勘案しながら話したりして、話を端折ったり、本当は「悲しかった」とか「辛かった」ということを吐き出したかったのに、そうではなくて、出来事を羅列するだけのような話し方になってしまって、後から決まって自己嫌悪していました。

「なぜ私は自分のことを、ほかの人が私に話すように、ちゃんと心が感じたことを話せないんだろう」と。そしてそのことをまたノートに書きだして自分を慰めていました。

悩んだり困ったり悲しくなったり、そういうことは、誰しも日常生活にあって当たり前です。

それを、気軽に話すことができていたら、小さい頃、母親や父親や身近な人に話せる環境にあったら、そんなことがあっても人に話すことは、特別でもなんでもないことだと、経験上体得して大人になる。

それが出来なかった人が、なんて多いことか。

悩んだり困った話しをすることは、息をしてご飯を食べてお風呂に入って寝ることと同じような「ただ、生きているだけ」で当たり前なのだと、それが人が生きているっていうことなんだと思っていますが、そんな

「ただ、いるだけ。」

が叶わなかったばかりに、私たちは大人になっても、こんなにも人との関係性で苦労したり、愛情が適切に表現できなかったり、別の形にすり替わって問題行動を起こしてしまったりして、そもそも悩んで困っているのに、さらに問題が深まってしまっているんですね。

「ただ、いるだけ」が許されないと、自分が何かの誰かの役に立っていないと「いられない」と思い込んで、私たちは外側に探し始めます。何か、誰かの役に立つことを「する」ということを。

私自身も、母親のグチや悩み事を何十年も聞いてきました。周りに気を遣って、積極的に調整役を買って出たり、自分のことをほとんど考えにいれずに人のために奔走したりしてきました。

そんなに一生懸命に尽くしてきたのに報われない感覚がいつも最後に残って、自分の羽で誰かのために布を織ったのに、自分が傷を負って終わってしまうような感じでした。めちゃくちゃ犠牲的で、書いていて自分のことながらぎょっとします!

ただ、いるだけ。に、あなたはなれていますか?

ただ、いるだけが許されない環境で生きてきたなら、ここからあなた自身が、自分に許してあげることに徹してみませんか。誰かに「ここにいるだけでいいよ。」と言われるのを待つのをやめにして。

自分の人生を生きるすべてはここから始まる。

私はそう確信しています。