仕事をしていて、学ばせてもらっていることは、同じことをするにでも、人によってこんなに違うのだな、と感じることだ。
課内では共有する仕事が多い。先日、文書が全てファイリングされているかを確認する必要があり、関係者に要請の連絡が入った。私も担当した一人だった。
その時別の仕事に取り組んでいた私は、目の前の仕事を終えてから考えようと、その件を保留にした。
そのうち、担当者のうちの一人からメールが入った。自分が担当した分をチェックした、という内容だった。
私はちょっと驚いてしまった。
ファイルの確認を一旦保留にしたものの、私はいざ確認するとなったら、他の人の分を含めた「すべての文書」を確認しようと思っていて、「自分の分だけ」、という発想をしていなかったから。
そして、その発想を、自分はどこか罪悪に感じていたということを、まるで目の前に鏡を置かれて映し出されたような気分になったからだ。
そっか、自分のだけで、いいのか・・・。
いいのか、というのは、それが「正しい」ということではなく、そういう選択もあるんだった、と思い直したこと。
そしてその人は、それが思考の標準仕様なのだ、確かにその人はいつもそうだ、と猛烈に納得させられた。
しばらくして、二人目の担当者からメールで報告があった。「残り全部を確認しました」と。
私はまた、驚いてしまった。
え、私の分もやったの??と。
これについて、私は、ものすごく嫌悪感が湧いてきたのだった。
私は自分で自分の仕事を確認しようと思っていた。
当然そうだと思っていた。
それを二人目の人に、「無断でされた」感覚を持ったのだ。
私はこれまでの職場で、「やってあげる側」に在った。
だけど今回、「やってもらう側」にされてみて、「やってもらう側」の気持ちが、必ずしも「有難い」とならないことを、実感を持って理解した。
二人目の人に、ありがとうとは言えたものの、湧いた嫌悪感はとっさに適切な言葉に変換できず、その場で伝えられなかった。
だから翌日改めて、「こんな時は私の承諾を得て頂けると助かります。やろうと思っていたので、驚いてしまって。」と伝えてみた。事前に承諾、に引っかかるだろうと思ったけれど、そのままそう伝えた。
きっと、「誰がどの仕事をしたかは把握していない」といった返事が来るだろうと予想していたら、やはりそんな返事が来た。把握していないから、全体に対して事前に伝える必要があったかもしれない、という返事が返ってきた。
今回のことで思った。
誰がどの仕事をしたかを把握することは必須だ。
少なくとも、自分がやった仕事は覚えておく。
それができていないと、他者の分まで「全部ひっくるめてやってあげる」という強行に出てしまう。
自他の分を把握した上で、事前に相手に承諾を得ることが必要。
この二つが揃って初めて、心から「有難う」と言えるのだろう。